「こんなことしたら、恥ずかしいと思われるかな」
「こんな自分なんて情けない」
「もし失敗したら、笑われるかもしれない」。。。。
そんな“恥ずかしさ”や“怖さ”を感じる瞬間ってありますよね。
これは多くの人が、日常の中でふと経験していると思います。
それは、言葉にならないような小さな不安だったり、
夜ひとりでいるときに胸にチクリとくる後悔だったりします。
仏教ではこの感情を「慚愧(ざんき)」と呼びます。
この言葉だけを見たり聞いたりすると怖い感じがしますが、
そんなことはありません。
“慚”は自らの行いを恥じること。
“愧”は他人に対して恥ずかしいと思う心。
つまり、慚愧とは、自分の中にある「良心」や「誠実さ」が働いている証なのです。
たとえば、
・小さなウソをついてしまったあと、なぜか心がモヤモヤする。
・借りたお金を返さずにいたり、支払いを後回しにしていると、相手に連絡しづらくなる。
・友人を傷つけるような言葉を言ったあと、後から強く後悔する。
・本当はやりたいことがあるのに「失敗が怖い」と感じて踏み出せない。
・思っていることを相手に伝えようと思う時に、どんな展開になるか「怖い」。
これらの気持ちはすべて、魂があなたに「そっちじゃないで〜」、
「あなたらしくないよ〜」と優しく教えてくれているサインなのです。
現実世界では、「恥」や「恐れ」はネガティブに見られがちです。
「そんなの気にせず堂々としていればいい」、
「自信を持てば大丈夫」と言われることもあるでしょう。
たしかにそれも一理あります。
が、
その“恥じらい”や“恐れ”にこそ、
あなたの純粋さや美しさが現れていることもあるのではないしょうか。
精神世界の視点で見ると、「慚愧」は、
魂の羅針盤のようなものと捉えることができます。
道に迷ったとき、「それはあなたの本来の姿ではないよ」と教えてくれる魂のカーナビ。
だからこそ、慚愧を感じたときには、
その感情をなかったことにするのではなく、
「自分は、どんな人でありたいんだろう?」と、
自分の声に耳を傾けてみてください。
慚愧があるということは、
あなたの中にまだ“愛”や”情”、“誠実さ”が息づいているということです。
逆に、何をしてもまったく何も感じない状態になってしまったら、
それは危険信号かもしれません。
恥がなくなれば、ケモノと同じです。
恐れがなくなれば、ただの無鉄砲です。
どれだけ立派な肩書きがあっても、どれだけ人に認められていても、
“恥じる心”が働かなくなったとき、
人は人であることを忘れてしまい、人の姿をしただけの動物になってしまいます。
もう少し深掘りしていくと、
仏教では「慚愧の心がある人は、まだ救いがある」と言います。
なぜなら、その心こそが“本当の自分に戻る入口”だからです。
それは、反省や自己否定ではなく、“気づき”の力です。
そしてそこには、必ず“成長”が含まれているのです。
慚愧は、決してあなたを責めるためのものではありません。
それは、あなたを元いた場所に戻してくれる“神さん仏さん宇宙さんの優しさ”なのです。
ここ最近というのか、特にこの数年、”慚愧”がない人が
多いように感じます。
SNS等の発達で単にそれが可視化されただけかもしれませんが。。。
今、もし「恥ずかしい」「怖い」「不安」と感じているあなたがいたら、
それは、あなたがズレていないという何よりの証拠です。
どうか、そんな自分を誇りに思ってください。
合掌。
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